日はすでに中天を過ぎていた。
砂塵まじりの風が、街道の両脇に痩せ枝を垂らす菩提樹を、乾いた音を立てて揺らしていた。
北へ向かう道であった。
ガンジス川の支流をいくつか越え、やがて山岳の麓へと続くその道は、牛車の轍と旅人の足跡、それから幾人かの巡礼が残した石の小さな塔によってのみ、かろうじて「道」と呼べるものになっている。陽の色は黄味を帯びはじめ、地平の遠くには、霞のむこうに山並みが紫に沈んでいた。
その道を、ひとりの僧が歩いていた。
髪は剃り、衣は麻の一重、足には粗末な草履。肩には小さな頭陀袋をただひとつ。急ぐでもなく、疲れるでもなく、淡々と歩き続ける。
すでに南インドの諸国において、彼は文殊菩薩の化身として噂されていた。
彼は、「龍樹」と呼ばれていた。
その日、街道の辻にさしかかったとき、日陰の石に腰をおろしていた一人の旅人が、僧の姿を認めて、ゆっくりと立ちあがった。旅装は埃にまみれ、目は落ちくぼんでいたが、そこには抜け目のなさと、別のなにか ― 疲れとも怒りともつかぬ色が同居していた。
旅人は、道を遮るようにして身を乗り出し、龍樹に話しかけた。
「話には聞いていたが、まさかここで会えるとは。龍樹どのとお察しします。」
龍樹は足を止め、相手をしずかに見た。聞かれたことに、肯定も否定もしなかった。
旅人は、道すがらそれまで説一切有部や諸派の行者とも議論をし、その知識を龍樹にぶつけて見たかったのだ。
旅人は龍樹に樹の下にある平らな岩場に休むようすすめ、自らも石に腰掛け、世間話もそこそこに単刀直入に切り出した。
「全てが空なのですよね。なら、あなたの路銀を私にください。それも空だから、あなたは困らないでしょう。」
風がひとすじ、砂を巻いて二人のあいだを抜けていった。藪から棒に路銀を出せという。この男は賊に見えたかもしれない。
龍樹は、微笑を含んで、その人を見つめてこう答えた。
「そもそも、私は路銀は持ち歩かない。道々施しを受けて歩いているのだ。仮に路銀を持っていたとしても、空なるものはやりとりができないよ。」
旅人は、言い返す。
「では聞くが、世の中の人間は、カネで食べ物を買い、カネで生活をしているではないか。」
龍樹は、少し眉をあげて答えた。
「その通りだ。カネと食べ物の関係を人間が決めているのだ。いくら払えば、何がどれだけ買えると。カネはカネだけで成り立たないのは分かるかね。買う対象がなくてはカネと言えない。食べ物も人が食べて食べ物と言えるのだ。交換も、価値も、人間が決めているものだ。」
旅人は、たまりかねてこう言った。
「それは理屈だ。現実はそうは動いていない、あなたがそう考えたいだけのことでしょう。人間が決めていることに意味があるから社会が成り立っているのではないか。」
龍樹は、静かに言う。
「そう、動物にはない人間の決め事。それを虚構という。それらを言葉にしたら仮論となる。それらを否定しているのではない。ただ本質ではないということだ。」
旅人「だから、そんな空想はいいと言っている。それこそ空論ではないか。現実を見たらどうか。」
龍樹「現実を見据えていないのは私か?あなたなのか?現実は真実が顕れた姿をいう。火を灯せば光と熱がでる。見えないが酸素を使い、二酸化炭素を出す。真実がそうあるから、現実として火は灯り、人はその火を便利につかうし、人はその火で災いにあう。」
旅人「事実、人間は火を使うではないか。」
龍樹「わかりませんか?人間が火を使うのは事実ではなく、人間の勝手なのだ。火がある、使えると思うのもまた人間の勝手である。火は人間がいようといまいと条件が揃えば発火する。」
旅人「私は物理の講釈を聞きたいのではい。火は空などではなく、実際にあるではないか。」
龍樹「空というのは、ある、ないのことを言っているのではない。有るも無いもそれだけで成り立たないと言っている。空は無ではない。火もまた火だけでなり立っているものではない。」
旅人「私は面倒臭い理屈は嫌いなのだ。結局、あなたは理屈をつけて自分のものを取られたくないのだな。」
龍樹「そう思うのも、あなたの勝手です。あなたが問題としているのは、私とあなたに、モノをやりとりする縁がないということなのだ。酸素がないところで火は灯らないし、着火する原因がなければ火は灯らない。燃える材料が燃える状態でなければまた火は灯らない。」
旅人「そういうことは、あなたでなくても商人でも知っている。条件が合わねば取引は成立しない。」
龍樹「それは商人がいくらなら売るかを決めていること。私は商売や、ものの値段を話しているのではない。」
旅人「偉そうなことを言っているが、結局、そんな理屈は何の役にも立たぬではないか。」
龍樹「役に立つ、役に立たない、というのを価値というなら、私は虚構の世界における価値は説いていない。」
旅人「ならば、あなたも、あなたの説くことも、何の価値もない。」
龍樹「あなたのいう価値とは、人間にとって役に立つこと、役に立たねば意味がないのだ、というのかね?」
旅人「役にも立たないことに、なぜ関わる必要がある?」
龍樹「自分にとって役立つ現実になれば良いというのだな?」
旅人「みなそう思って生きているではないか。あなたも空の理論が役に立つから説いているのだろう?」
龍樹「役に立つ、立たない以前に、思い違いや思い込みを否定しているのだ。」
旅人「私の言うことは、全ての人類が日々考えていることだ。あなたのほうが、現実を直視せず役立たない理屈をこねている事に気づかないのか?」
龍樹「ならば聞こう。なぜあなたは困る事があるのか。」
旅人「誰でも困ることはあるだろう。」
龍樹「それはあなたが困っているのだ。現実は、あなたが困ろうと、困るまいと、あなたがその現実の中にあるという関係ができているのだ。」
旅人「だから、困る現実があるというのだ。そういう現実が起こると言っている。」
龍樹「波のように、常に変わり、打ち上げてくるのが現実なのだ。永遠に変わらない現実などありはしない。」
そこまで言って、龍樹は、その旅人の表情がわずかに揺らいだのに気づいた。
旅人は、しばしの沈黙ののち思い口を開くように、低い声で独り言のように呟いた。
「私の子は、死んでしまった」
風が、もう一度、二人のあいだを通りぬけた。
「その現実は、未来永劫、変わることはない」
龍樹は、目を伏せ気味に静かに
「お察しします。」
とその旅人に言った。その言葉は他人事の気休めでも、同情でもない響きを持っていた。
そしてしばらくおいて、旅人は続けた。
「私の子は死んだ。その現実は未来永劫変わることはない。」
「あなたは、」
しばらくおいて、龍樹はこう切り出した。
「ただ、そのことによって、子がよみがえる現実、時間がさかのぼる現実があれば、それが実現してほしいと、思っているあなたがいる。そうではないか?」
旅人「それが親というものだ。」
龍樹「子があるから、初めて親と言える。あなたはまだ親である。その子はもういないと言うが、あなたはまだ親である。子がいないのに親とはいえない。」
旅人「ならばその縁とやらも、永久ではないのか。」
龍樹「あなたがこの世からいなくなったとき、あなたと子供は、親子であったと語られるだけになる。あなたが永遠がどうかを決める事ではないのだ。」
旅人「一体、あなたは、どうすれば良いと言っているのだ。」
龍樹「自分で真実を決めるな。それを思い違いと言っている。何が勝手な思い込みであったのか、なぜあらゆるもの、あらゆる出来事が、ある、ない、という見方しかできないのか。そこが入り口になろう。虚構も戯論も生きてゆくには必要なことだ。しかし仮論を真実と握りしめるとき、仮(prajñapti)は人を縛る縄(執=grāha)になる。」
旅人「ならば浄土もまたないのか?仏もいないのか?」
龍樹「それも人間が決める事ではない。人間の見識ではあり得ないのだ。空とは、一切の見の出離を言っている。空を見として執する者もまた救い難い。真実も、浄土も、諸仏もまた空であり、人間の見にあり続ける限り自性として扱う戯論(prapañca)である。」
旅人「実体のないものに名があるのか。それこそ人間が勝手に名付けたのではないか。念仏でも唱えればいいのか?」
龍樹「自分主体に念仏を唱えて何を期待するのか。意味がある、役立つなら念仏してやってもいいというのか。人間が本来おかれている真実の名を称えるという以外に何もないのだ。」
旅人「役に立たないのか?効果はないのだな。」
龍樹「効果を期待するなら、人間にできることは最善を尽くす行いだけだ。そうすれば縁との関わりも違ってくるだろうが、努力の対価を期待するのもまた思い違いなのだ。真実が都合よく機能する訳ではないのだ。すがりつく真実があるのではない。逆だ。握りしめているものを、手放しなさい。子を返せ、時を戻せ、この波を鎮めよ――そう握りしめていた手を、ゆるめてゆきなさい。ひらいた手のうえに、あなたは、すでに限りない縁の中に置かれている。もとから置かれていたことに気づけたら、あなたの次の旅が始まる。」
旅人「結局は、自助努力か。」
龍樹「思い違いに気づかねば、思い違いから抜け出すことはできぬ。握りしめるような自助努力ではない。あなたがもっとも暗いところにいるときにも、なお、あなたに届いている。縁起のままに、すでにあなたは関係性のただなかにある。それを、忘れてはならない。」
旅人は、目が覚めた思いがしなかった。分かった気にもなれなかった。
いつの間にか陽は、ついに山の稜線に触れた。
街道の砂が、赤く染まり、二人の影が、東へ長く伸びていた。
龍樹は、それ以上なにも言わなかった。
ただ一礼し、草履のかすかな音を立てて、北へとまた歩きはじめた。
男は、その後ろ姿を、しばらく見ていた。
夕日を浴びた背中の光陰が、ひとすじの線のように、道の向こうへ遠ざかっていく。
男は、自分の右の掌を、もう一度、そっとひらいて弱々しく首を振った。
やがて男は、立ちあがり、南へと、歩きだした。
足は、先ほどまでと、同じ地を踏んでいた。
荷の重さも、革袋の重みも、変わってはいなかった。
ただ、一歩が、どういうわけか、さきほどまでとは、少しだけ違った感触を持っていた。
気づけば胸のうちで、忘れられない小さな子の名を、無意識に呼び続けている。
名はこれほどまでに、自分の大切なことを象徴する。すでに影も形もないのに、その名は自分にとってすべてであった。
自分で名付けたのに、自分のすべてになってしまった、もう消そうとも、消すべきものとも、思えなかった。
長い年月が経ち、ずっとのちに、我が子を呼ぶ名が、我が子という実体ではなくなっていた。
それは、あのとき龍樹から聞いた名とともに、縁というつながりになっていた。
確かに、喜びの中で、我が子が誕生し、悲しみの中で、我が子を喪失した。自分にとっては、その通りだった。
けれど、あのとき聞いた言葉が、この縁は、誕生を契機に生まれて、喪失を機に消滅しただけのものではないと思わせる。子を持てて親になれた。けれどその縁も消えずに、形を変え続けて私の中であり続けている。
私が握り続けることも、消し去ろうとすることもないのだ。
理屈をつけて龍樹に迫り、理屈を言うなと吠えていた若き自分を思い起こして、すっかり痩せ細った老人は一人静かに笑っていた。