仏典を紐解く

浄土真宗・仏教の根本聖典を、現代語と原文で読み解きます。
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一. 歎異抄 現代語解釈
著:唯円(親鸞の弟子) 掲載・解釈:Śākyamaṅgalaḥ

歎異抄 現代語解釈

著:唯円(親鸞の弟子) 掲載・解釈:Śākyamaṅgalaḥ
浄土真宗の根本聖典。親鸞聖人の直弟子・唯円が、師の教えに背く異説を嘆いて書き記した書。「悪人正機」「自然法爾」など、他力本願の真髄が説かれる。全十八章・後序を収録。
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歎異抄

親鸞聖人が世におられた頃と、聖人なき今日を、ひとり心の中で思いめぐらしてみれば、親鸞聖人の口から直接お教え頂いた伝えられた真実の信心とは異なる理解が広まっていることを嘆かずにはいられません。あとに続く人々が、信心を受け継いでいくとき、これら異説により疑いや迷いを生じるであろうことを、心配しています。仏法の世界に導いてくださる大切な師に出会う幸運もなく、本願を信じ念仏する道に入ることはできるでしょうか。

仏法に依らない自分勝手な解釈で、本願の教えの大切な要旨を思い誤ることがあってはなりません。私は、亡き親鸞聖人から直接うかがったお話のうち、今も心に深く残っていることを、わずかながら書き記します。これはただ、同じ思いで念仏する人たちの疑念を解きほぐすためです。

第一章:「私の思いを超えたもの」

阿弥陀如来の本願の、清浄にして真実をめぐむはたらきは、私たちの思いを超えたものです。その誓願に救われて、必ず阿弥陀如来の世界(浄土)に生まれてゆくことを信じ、「念仏を称えん」という心が起こったその瞬間、すでに私たちは「決して見捨てられることのない救い(摂取不捨)」の中におさめ取られています。

阿弥陀如来の本願は、年齢や立場、善人か悪人かを選びません。必要なのは、ただ阿弥陀如来の本願に目覚める心だけです。なぜならこの願いは、如来に背き、欲望、苦しみ、怒りが渦巻く私たちを救うために立てられたものだからです。

ですから、本願を信じるうえで、ほかの善行は必要ありません。念仏に勝る善はないからです。また、自分の悪さを恐れる必要もありません。阿弥陀如来の本願を妨げるほどの悪は、そもそも存在しないからです。

第二章:「念仏に秘伝はない」

皆さんが、十を超える国境を越え、命がけでここまで訪ねて来られたのは、ただ「極楽往生の道」を確かめたい一心からでありましょう。

親鸞にとっては、「ただ念仏して、阿弥陀如来に救われなさい」という法然上人の言葉を、そのまま信じる以外に、別の理由や事情はありません。念仏が本当に浄土に生まれる原因なのか、それとも地獄に落ちる行いなのか、そのようなことは、私にはまったく分かりません。

たとえ、法然上人に騙されて念仏し、その結果、地獄に落ちることがあったとしても、私は決して後悔しないでしょう。

第三章:「悪人こそが救われる」

自分で善い行いができると思っている人でさえ、浄土に往生することができる。ましてや、自分を真実に背く罪悪の身だと自覚している人が往生できないはずがありません。

一見するともっともらしく聞こえますが、「悪人でさえ往生できるのだから、善人ならなおさらだ」という考えは、阿弥陀如来の本願、つまり他力の本当の意味に反しています。

なぜなら、自分の力で善を積もうとする人は、どこかで「自分の努力」を頼りにしており、本当の意味で他力にまかせきってはいないからです。

つまり本願の本当の目的は、「悪人を仏にする」ことにあります。だからこそ、他力にすべてを任せる悪人こそが、往生を遂げるための最も大切な自覚なのです。

ゆえに、「善人ですら往生するのだから、まして悪人が往生できないはずがない」と、親鸞聖人は言われたのです。

第四章:「私の慈悲ではない、仏の慈悲である」

慈悲には、聖道門と浄土門とで、はっきりした違いがあります。聖道門における慈悲とは、いのちあるものすべてをあわれみ、悲しみ、守り育てようとする心です。しかし実際には、思ったとおりに人を仏のさとりに導くことは、きわめて難しい。

これに対して、浄土門の慈悲とは、念仏して、できるだけ早く仏となり、その仏の大きな慈悲の心をもって、思いのままにすべての衆生を利益することをいいます。

だからこそ、ただ念仏を申すということだけが、始まりから終わりまで貫かれた、本当の意味での大慈悲のはたらきなのです。

第五〜九章:信心・業・念仏について

(第五章)親鸞は、亡き親たちへの追善供養のために念仏を唱えたことは一度もありません。なぜなら、いのちあるものはみな、幾度も生まれ変わってきたながい生命の中で父であり母であった存在だからです。誰か一部だけを先に助けるのではなく、すべての者が仏となり救われるべきなのです。

(第七章)念仏する人は、何ものにも妨げられない、ただ一つの道を歩んでいます。善にも悪にも左右されないところに立っているからこそ、念仏者の歩む道は、一切にさえぎられることのない、無碍の一道なのです。

(第八章)念仏は、ただ阿弥陀如来のはたらきによるものであり、自分の力(自力)を完全に離れています。そのため、念仏は行者にとって、行でもなく、善でもないものです。

(第九章)「念仏は申しているのに、喜びの心が起こらず、浄土へ行きたいという気持ちも起こりません」という問いに、聖人は「それは往生が定まっているからだ。喜ぶはずの心が起こらないのは煩悩のしわざ。そのような私たちのためにこそ大悲の本願が立てられた」と答えられました。

第十〜十八章:信心の深まりと誤解の是正

(第十章)「念仏というものは、人間の思慮分別を超えている。意義がないことに、最も大切な意義がある。言葉で言い尽くすこともできず、考えで理解することもできず、理屈で測ることもできないものだからである」と聖人は仰せになりました。

(第十三章)あるとき聖人は「人を千人殺してくれないか、そうすれば往生は定まるのだ」と問われました。「それは業縁が備わっていないから殺せないのであって、自分の心が善いから殺さないのではない」——この言葉は、本願の不思議なはたらきによって救われているという事実を知らないことを戒めたものです。

(第十六章)「自然(じねん)」とは、自分で作り出さないことを言います。これこそが他力なのです。

後序

亡き親鸞聖人のお話によれば、法然上人のもとには弟子が大勢いましたが、同じ信心に立つ人は、実は多くなかったといいます。

聖人は、常にこう語っておられました。「阿弥陀仏が五劫もの長い思惟を重ねて立てた本願は、ひとえに、この親鸞一人のためであった。これほど重い業を背負った身を、救おうとして立てられた願の、なんとありがたいことか。」

この書を、「歎異抄」と名づけます。

二. 願生偈 現代語解釈
著:世親菩薩(天親) 掲載・解釈:Śākyamaṅgalaḥ

願生偈 現代語解釈

著:世親菩薩(ヴァスバンドゥ) 漢訳:菩提流支 掲載・解釈:Śākyamaṅgalaḥ
「無量寿経優婆提舎願生偈(Sukhāvatīvyūhopadeśa)」。4〜5世紀のインドの論師・世親菩薩が著した浄土往生論。漢文原文・訓読・現代語解釈・解説を収録。浄土三部経の中核に位置する重要な論書。
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無量寿経優婆提舎願生偈(漢文)

世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国
我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応
観彼世界相 勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際
正道大慈悲 出世善根生 浄光明満足 如鏡日月輪
備諸珍宝性 具足妙荘厳 無垢光炎熾 明浄曜世間
宝性功徳草 柔軟左右旋 触者生勝楽 過迦旃隣陀
宝華千万種 弥覆池流泉 微風動華葉 交錯光乱転
宮殿諸楼閣 観十方無碍 雑樹異光色 宝蘭遍囲繞
無量宝交絡 羅網遍虚空 種種鈴発響 宣吐妙法音
雨花衣荘厳 無量香普薫 仏恵明浄日 除世痴闇冥
梵声悟深遠 微妙聞十方 正覚阿弥陀 法王善住持
如来浄華衆 正覚花化生 愛楽仏法味 禅三昧為食
永離身心悩 受楽常無間 大乗善根界 等無譏嫌名
女人及根欠 二乗種不生 衆生所願楽 一切能満足
故我願生彼 阿弥陀仏国 無量大宝王 微妙浄花台
相好光一尋 色像超群生 如来微妙声 梵響聞十方
同地水火風 虚空無分別 天人不動衆 清浄智海生
如須弥山王 勝妙無過者 天人丈夫衆 恭敬遶瞻仰
観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海
安楽国清浄 常転無垢輪 化仏菩薩日 如須弥住持
無垢荘厳光 一念及一時 普照諸仏会 利益諸群生
雨天楽花衣 妙香等供養 讃諸仏功徳 無有分別心
何等世界無 仏法功徳宝 我願皆往生 示仏法如仏
我作論説偈 願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国

訓読

世尊。我、一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず。
我、修多羅(しゅたら)真実功徳の相(そう)に依りて、願偈(がんげ)を説きて総持(そうじ)して、仏教と相応す。
彼の世界の相を観ずるに、三界(さんがい)の道に勝過(しょうか)せり。
究竟(くきょう)して虚空の如し。広大にして辺際(へんざい)無し。
正道の大慈悲は、出世(しゅっせ)の善根より生ず。
浄光明満足すること、鏡と日月輪(にちがつりん)との如し。
(以下略——note.com全文をご参照ください)

現代語解釈

世尊よ。私は心を一つにして、尽十方無碍光如来に帰依し、安楽国(浄土)に生まれたいと願います。

私は、経典(修多羅)に説かれた真実の功徳のありさまに基づいて、この願いの偈を述べ、これを総持して、仏の教えと一致させます。

かの世界のありさまを観察すると、それは三界(欲界・色界・無色界)の道よりもはるかにすぐれている。究極においては虚空のようであり、広大で果てがない。

正しい道にもとづく大いなる慈悲は、世を超えた善根から生じている。その清らかな光明は満ち足りており、鏡や日月の光のようである。

あらゆる宝の本性を備え、すばらしい荘厳を完全に具えている。汚れのない光の炎は盛んに輝き、明らかで清らかに世間を照らす。

宝の花は千万種もあり、池や流れや泉をあまねく覆う。そよ風が花や葉を動かすと、光が入り乱れてきらめく。

無量の宝が互いに交わり絡み合い、宝の網(羅網)が虚空にまで広がっている。種々の鈴が音を発し、すぐれた妙法の音を響きわたらせる。

仏の智慧は明らかで清らかであり、日の光のように世の無知の闇を取り除く。その梵声は深遠で微妙であり、十方世界に響き渡る。

正覚を成就された阿弥陀法王は、この国をよく治め、保たれる。如来の浄らかな華の衆生は、正覚の花より化生する。

仏法の味わいを愛して楽しみ、禅定(三昧)を食とする。永遠に身と心の悩みを離れ、常に絶えることなく安楽を受ける。

ゆえに私は願う、かの阿弥陀仏の国に生まれたいと。

解説

4〜5世紀頃ガンダーラで世親(ヴァスバンドゥ)が撰述した「無量寿経優婆提舎願生偈(Sukhāvatīvyūhopadeśa)」である。菩提流支が漢訳したもの。

偈頌(韻文)と長行(散文)なら成り、前者を「願生偈」、後者を「優婆提舎」(論)という。世親が、はじめに世尊と呼ぶのは釈迦である。つまり釈迦に向けた浄土への願生を志願したものである。

浄土とは偈中にある通り、阿弥陀仏の仏土である。阿弥陀仏、つまり尽十方無碍光如来に帰依し、この帰命の信に浄土が開かれる。浄土は天国でも、死後の世界でもない。生死を超えた真実の領域と言える。

この浄土を、最高の真実として基軸に据えることを「讃嘆」という。したがい浄土を讃嘆するとは、現世の価値基準を超えることを意味する。その浄土に生まれる願い「願生」は、阿弥陀仏の「我が国に生まれんと欲え」という本願に応じている。これを「本願に帰する」という。世親の仏弟子としての立ち位置を明示している。

三. 我が信念
著:清沢満之(「精神界」所収) 掲載:Śākyamaṅgalaḥ

我が信念

著:清沢満之(1863〜1903) 掲載:Śākyamaṅgalaḥ
明治時代の真宗大谷派僧侶・哲学者、清沢満之による信仰告白。「精神界」(1903年)所収。有限者である自己が無限なる如来を信ずることの意義を、哲学的かつ実存的に語った名文。文語体で記されている。
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我 信 念

清 沢 満 之

私は常々信念とか如来とか云ふことを口にして居ますが、其私の信念とは如何なるものであるか私の信する如来とは如何なるものであるか、今少し之を開陳しやうと思ひます。

私の信念とは、申す迄もなく、私が如来を信ずる心の有様を申すのであるが、其に就て、信すると云ふことと、如来と云ふことと、二つの事柄があります。此の二つの事柄は丸で別々のことの様にもありますが、私にありては、そうではなくして、二つの事柄か全くーつのことであります。私の信念とは、どんなことであるか、如来を信ずることである。私の云ふ所の如来とは、どんなものであるか、私の信する所の本体である。

私が信ずるとは、どんなことか、なぜそんなことをするのであるか、それにはどんな効能があるか、と云ふ様な色々の点があります。先づ其効能を第一に申せば、此信ずると云ふことには、私の煩悶苦悩が払ひ去らるヽ効能がある。或は之を救済的効能と申しませうか。兎に角、私が種々の刺戟やら事情やらの為に、煩悶苦悩する場合に、此信念が心に現はれ来る時は、私は忽ちにして安楽と平穏とを得る様になる。

其模様はどうかと云へば、私の信念が現はれ来る時は、其信念が心ーぱいになりて、他の妄想妄念の立ち場を失はしむることである。如何なる剌戟や事情が侵して来ても信念が現在して居る時には、其剌戟や事情がちつとも煩悶苦悩を惹起することを得ないのである。私の如き感じ易きもの、特に病気にて感情が過敏になりて居るものは、此信念と云ふものがなかったならば、非常なる煩悶苦悩を免れぬことと思はれる。健康な人にても苦悩の多き人には、是非此信念が必要であると思ふ。

私が如来を信ずるのは、私の智慧の窮極であるのである。少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義に就て研究せずには居られないことになり、其研究が終に人生の意義は不可解であると云ふ所に到達して、茲に如来を信すると云ふことを惹起したのであります。

私の信念には、私が一切のことに就て、私の自力の無功なることを信ずる、と云ふ点があります。此自力の無功なることを信ずるには、私の智慧や思案の有り丈を尽して其頭の挙げやうのない様になる、と云ふことが必要である。我には何にも分らない、となった処で、一切の事を挙げて、悉く之を如来に信頼する、と云ふとになったのが、私の信念の大要点であります。

私の信念は、どんなものであるか、と申せば、如来を信することである。其如来は私の信ずることの出来る又信せざるを得ざる所の本体である。私の信ずることの出来る如来と云ふのは、私の自力は何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である。

私は何が善だやら、何が悪だやら何が真理だやら何が非真理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、何も知り分る能力のない私。此私をして、虚心平気に、此世界に生死することを得せしむる能力の根本本体が、即ち私の信ずる如来である。私は此如来を信せずしては、生きても居られず。死んで往くことも出来ぬ。私は此如来を信ぜすしては居られない、此如来は、私が信ぜざるを得ざる所の如来である。

私の信念は大略此の如きものである。第一の点より云へば、如来は私に対する無限の慈悲である。第二の点より云へば、如来は私に対する無限の智慧である。第三の点より云へば、如来は私に対する無限の能力である。斯くして私の信念は、無限の慈悲と無限の智慧と無限の能力との実在を信するのである。

無限の慈悲なるが故に、信念確定の其時より、如来は、私をして直ちに平穏と安楽とを得せしめたまう。私の信ずる如来は、来世を待たず、現世に於て既に大なる幸福を私に与へたまふ。私は他の事によりて多少の幸福を得られないことはない。けれども如何なる幸福も、此信念の幸福に勝るものはない。故に信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。此は私が毎日毎夜に実験しつヽある所の幸福である。

次に如来は、無限の智慧であるが故に、常に私を照護して、邪智邪見の迷妄を脱せしめたまふ。信念の確立せる幸には、たとへ暫く迷妄に陥ることあるも、亦容易く其無謀なることを反省して、此の如き論議を拗棄することを得ることである。

扨又如来は無限の能力であるが故に、信念によりて、大なる能力を私に賦与したまう。一切の貢任を引受けてくださることによりて、私を救済したまうことである。如何なる罪悪も、如来の前には、毫も障りにはならぬことである。私は只此如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。

如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に遍満してある。私は此如来の威神力に寄托して、大安楽と大平穏とを得ることである。私は私の死生の大事を此如来に寄托して、少しも不安や不平を感することがない。「死生命あり、富貴天にあり」と云ふことがある。私の信する如来は、此天と命との根本本体である。

四. 念仏正信偈(文類偈)
著:親鸞聖人(浄土文類聚鈔所収) 掲載・訳:Śākyamaṅgalaḥ

念仏正信偈(文類偈)

著:親鸞聖人(1173〜1263) 掲載・訳:Śākyamaṅgalaḥ
親鸞著「文類偈」(浄土文類聚鈔所収)の現代語訳・原文・訓読。通称「正信偈」と同じく60行120句で、阿弥陀仏の本願と七高僧(龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・源空)の徳を讃嘆する偈。
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解題

「正信偈」といえば、通常『正信念仏偈』を指す。『顕浄土真実教行証文類』の行巻末に収められる。

『念仏正信偈』は、通称「文類偈」とされ、こちらは『浄土文類聚鈔』に所収される。両者は、同じ60行、120句。声明(しょうみょう)の節譜も、類似である。

「文類偈」の構成は『教行信証』の「正信偈」と同じく、前半で阿弥陀仏(法蔵菩薩)の本願・光明・信心の徳を讃え、後半で龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・源空の七高僧を順に讃える流れである。

「正信偈」は親鸞の主著『教行信証』の要義大綱を七言の偈にまとめたもので、大著の結晶と言える。故に蓮如が真宗門徒の勤行の中心に据え、現代まで伝わる。

現代語訳

西方の不可思議なる尊(阿弥陀仏)は、まだ法蔵菩薩であった修行の段階(因位)において、すぐれてまれな根本の誓い(本願)を群を抜いて起こし、この上ない大悲の願を建て立てられた。どのような国土・衆生を救うかを思いめぐらし選び取る(思惟摂取)のに、五劫という長い時を経られた。得られたさとりのすぐれた果報(菩提妙果)は、その願にみごとに報い応じるものであった。

その根本の誓いを成就(満足)するのに十劫の時を経られた。仏となられてからの寿命は限りなく延びて、はかり知ることができない。その慈悲は深く遠大であって、虚空のようである。その智慧は満ち足りて完全であり、大海のようである。

あまねく、思いはかれない(難思)、さえぎられることのない(無碍)光を放って、無明という大いなる夜の闇をよく破る。その智慧の光は明るく朗らかで、衆生の智慧の眼を開かせる。

阿弥陀仏という太陽は、あまねく照り輝く。すでに無明の闇をよく破ってはいるけれども、むさぼり・愛着(貪愛)と、いかり・憎しみ(瞋嫌)の雲や霧が、清らかな信心の空を、なお常に覆っている。たとえば、太陽・月・星が、もやや雲・霧に覆われていても、その雲霧の下は光に照らされて闇がないのと同じである。

かならず、この上ない清らかな信心の暁(夜明け)に至れば、三有(迷いの世界)の生死の雲は晴れる。清らかでさえぎられない光の輝きが朗らかにあらわれて、一如(真如)の法界の真実の身(真身)が顕れる。

煩悩に染まった者も、五逆・悪を犯した者(逆悪)も、ひとしく皆(浄土に)生まれ、法をそしる者(謗法)も、さとりの因を欠いた者(闡提)も、心をひるがえせば(回心すれば)皆往生する。

釈迦如来は楞伽山(ランカー山)において、人々のために予言された。南インド(南天竺)に龍樹菩薩が世にあらわれ、有(実在する)・無(虚無)という誤った見解(有無の見)を、ことごとく打ち破るであろう、と。

龍樹菩薩は大乗のこの上ない教えを説きあらわし、歓喜地(菩薩の初地)のさとりを得て、安楽国(浄土)に生まれるであろう。龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』を著して、自力の難行という険しい道を歩む者を特に哀れみ、往きやすい(易往)大いなる道を広く開き示した。

天親(世親)菩薩は『浄土論』を著して説かれた。経典(修多羅)に依りどころを置いて真実を顕す、と。迷いを横ざまに飛び超える(横超)根本の誓いを明らかにし、不可思議なる阿弥陀仏の願を、説き述べ広められた。

曇鸞は仙人の経(道教の経典)を焼き捨てて、安楽の国(浄土)に帰依した。曇鸞は天親菩薩の『浄土論』を註釈し(『往生論註』を著し)、如来の本願が、その名号を称えること(称名)に顕れることを明らかにした。

道綽は、聖道門(自力の道)ではさとりを証しがたいことを決定的に判断し、ただ浄土門こそが通り入るべき救いの道であることを明らかにした。一生のあいだ悪を造り続けた者であっても、阿弥陀仏の広大な誓い(弘誓)に出遇えば、安養(浄土)の世界に至って、すぐれたさとりの果(妙果)を証する。

善導は、ただ一人、仏の真意に明らかであった。深く阿弥陀仏の本願によりどころを置いて、まことの教え(真宗)を興した。

源信は、釈尊一代のあらゆる教えを広く開きあらわし、もっぱら安養(浄土)に帰依して、すべての人にそれを勧めた。

源空(法然)は、まことの教え(真宗)とその証(あかし)を、辺鄙な片田舎の国(片州=日本)に興し、阿弥陀仏が選びとられた本願(選択本願)を、濁りの世に施した。速やかに、静かでつくられたものでない(寂静無為)安楽(涅槃・浄土)に入ることができるのは、かならず信心こそがそこに入るためのはたらき(能入)である、と言われた。

これら七高僧の論や説、師たちの釈は、ともに心を同じくして、果てしなくきわまった濁り・悪に沈む衆生を、すくい救おうとしている。出家の者も在家の者も(道俗)、その時代その時代の人々(時衆)も、皆ことごとくともに、ただこの七高僧の説を信じるべきである。

原文(漢文)

西方不可思議尊 法蔵菩薩因位中 超発殊勝本弘誓 建立無上大悲願
思惟摂取経五劫 菩提妙果酬上願 満足本誓歴十劫 寿命延長莫能量
慈悲深遠如虚空 智慧円満如巨海 清浄微妙無辺刹 広大荘厳等具足
種種功徳悉成満 超逾十方諸仏国 普放難思無碍光 能破無明大夜闇
智光明朗開慧眼 名声靡不聞十方 如来功徳唯仏知 集仏法蔵施凡愚
弥陀仏日普照耀 已能雖破無明闇 貪愛瞋嫌之雲霧 常覆清浄信心天
(以下、全60行・120句——note.com全文をご参照ください)

五. 龍樹『十二門論』鳩摩羅什訳
著:龍樹菩薩(ナーガールジュナ) 漢訳:鳩摩羅什 掲載・訳:Śākyamaṅgalaḥ

龍樹『十二門論』鳩摩羅什訳

著:龍樹菩薩(ナーガールジュナ、2〜3世紀) 漢訳:鳩摩羅什 掲載・訳:Śākyamaṅgalaḥ
中観仏教の根本論書「三論」の一つ。十二の門(章)で構成され、各門で空の論証を展開する。漢文新字体化・章別対訳を収録。第一〜六門(観因縁門・観有果無果門・観縁門・観相門・観有相無相門・観一異門)の要旨を掲載。
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解題

『十二門論(Dvādaśanikāya Śāstra)』は『中論』『百論』とともに三論宗の根本聖典「三論」の一を成し、中国における中観思想の中核となった。

『十二門論』は十二の門(章)から成り、各門は冒頭に偈頌を掲げ、続く長行(散文釈)で論証を展開する形式をとる。総偈数は概ね26偈とされる。

『十二門論』と『中論』は密接な関連性がある。各門と対応する『中論』の章は次のとおり。

1.観因縁門 2.観有果無果門 3.観縁門 4.観相門 5.観有相無相門 6.観一異門 7.観有無門 8.観性門 9.観因果門 10.観作者門 11.観三時門 12.観生門

十二門論序(僧叡撰)

『十二門論』は、まことに実相の中道を折衷する書であり、道場(菩提道場)の要となる軌範である。「十二門」とは、もろもろの枝末を総括する大数のことであり、「門」とは開け通じて滞ることのないものの称(よびな)である。

ゆえに龍樹菩薩は、出ずる者のために由るべき道を開き、十二門を作してこれを正された。十二をもって正すとき、有と無とがともに暢び通じ、事として尽くされぬものはない。

観因縁門第一(現代語訳要旨)

衆縁所生の法に二種ある。一には内、二には外である。外の因縁とは、たとえば泥・轆轤・陶工等が和合するがゆえに(土)瓶が生ずるようなものである。

内の因縁とは、いわゆる無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死である。

このように内外の諸法は、すべて衆縁より生ずる。衆縁より生ずるがゆえに、自性をもたない(空)。

それゆえに知るべし、一切の有為法はことごとく空である。有為法ですら空であるのに、まして「我」においてをや。

偈頌:衆縁所生法、是即無自性。若無自性者、云何有是法。
(衆縁より生ずる法は、すなわち自性をもたない。もし自性がないのならば、どうしてこの法が有ると言えようか。)

観有果無果門第二(現代語訳要旨)

先有則不生、先無亦不生、有無亦不生、誰当有生者。
(先に有るものは生ぜず、先に無きものもまた生ぜず、有無の両者なるものもまた生ぜず、いったい誰が生ずる者となろうか。)

果が因のなかにあらかじめ有るならば、それは生ずるはずがない。先に無きものも生ずるはずがない。それゆえに果は究竟として生じないのである。

果が究竟として生じないがゆえに、一切の有為法はことごとく空である。

観縁門第三(現代語訳要旨)

広略衆縁法、是中無有果。縁中若無果、云何従縁生。
(広く、あるいは略して説かれる衆縁の法、そのなかに果は存在しない。縁のなかに果がないのなら、どうして縁より生ずるといえようか。)

四縁とは、因縁・次第縁(等無間縁)・縁縁(所縁縁)・増上縁である。いずれも因のなかに果をもたない。縁と果がともに無いがゆえに、一切の有為法は空であり、有為が空であれば無為もまた空である。

観相門第四(現代語訳要旨)

有為及無為、二法倶無相。以無有相故、二法則皆空。
(有為および無為、この二法はともに相をもたない。相をもたないがゆえに、二法はともに空である。)

生・住・滅という有為の相が成立しないがゆえに、有為法は空である。有為法が空であるがゆえに、無為法もまた空である。なぜか。有為が滅したものを「無為涅槃」と名づけるのだから、有為が空であれば無為もまた空である。

観有相無相門第五(現代語訳要旨)

有相相不相、無相亦不相。離彼相不相、相為何所相。
(有相のものに相が相づけることはなく、無相のものにも相は相づけえない。その有相・無相を離れたうえで、いったい相は何ものを相づけるというのか。)

相と可相とはともに空である。相と可相とが空であるがゆえに、万物もまた空である。

観一異門第六(現代語訳要旨)

相及与可相、一異不可得。若無有一異、是二云何成。
(相と可相とは、一(同一)であることも、異(別異)であることも、得られない。もし一であることも異であることもありえないのなら、この二者はどうして成立しようか。)

このように、種々の因縁において相と可相は一でも異でも得られず、第三の法もない。それゆえに相と可相とはともに空であり、一切法はみな空である。

(第七門以下、note.com全文をご参照ください)

六. 唯識三十頌(玄奘訳)
著:天親菩薩(ヴァスバンドゥ) 漢訳:玄奘三蔵 掲載・訳:Śākyamaṅgalaḥ

唯識三十頌(玄奘訳)

著:天親菩薩(ヴァスバンドゥ、4〜5世紀) 漢訳:玄奘三蔵 掲載・訳:Śākyamaṅgalaḥ
唯識思想の根本論書。「外的現実は意識の仮想的性質にすぎない」という唯識の立場から、潜在意識・自己意識・感覚意識の三種と心的状態を分類し、さとりに至る5段階の実践を説く三十の偈頌。
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天親による意識(仮想的な性質の存在)を説く三十の偈頌

一.意識の特徴

意識から離れた抽象的な外的現実の存在があるのかないのか。もし意識の仮想的な性質しかないのなら、なぜ世俗的な教えも聖なる教えも、同一性と目的の存在について語っているのか。

同一性(Identity)と目的(Purpose)は、隠喩として機能し、さまざまな種類の心的イメージとして進化する仮説物といえる。その進展する変形のありかたを通して、意識がそれらを顕在化させることができる3つの方法がある。

二.意識の顕在化における3つの方法

意識の顕在化には3つの方法がある。すなわち、潜在意識のさまざまな熟成種子(ripening seeds)、自己利益の勘定計算、そしてこれら2つを、想像上の対象を区別することによる意識の仮想的な枠組みと組み合わせることである。

三.潜在意識の記憶の貯蔵について

第一にある、意識の異なる熟した種子の特徴として、潜在意識の記憶の貯蔵庫があり、そこから意識の種子のあらゆる異なる熟成がある。潜在意識であるがゆえに、完全に理解することは不可能である。つまり、何が取り込まれ、保持され、それがどこにあり、そして知覚を仮想的にどのように組み立てているのか。

四.遍在する5つの原動力

それは常に5つの偏在する原動力に関連付けられる。それらは接触、注意、感情的感覚、精神的関連、意図する下心である。このうち、差異なく偏りのない感情的感覚のみしかない。それは急流のように絶えず渦巻いており、この乱流は、真に霊的に価値のある存在の地位を獲得した人々によってのみ完全に開放される。

五〜七.自己利益の勘定計算をする意識

第二にある、自己利益の勘定計算は、どんどん進化しその前の対象としての記憶の潜在意識の貯蔵庫とつながることに依存しており、その本質は自己利益の意図的な計算によって特徴付けられる。

それは常に4つの感情障害と組み合わされている。すなわち、自己中心的な妄想、自己中心的な信念、これに組み合わされる自己中心的な自尊心と自己中心的な偏愛である。

本質的に実存的であるがゆえに、道徳的に定義されておらず、生じるものは何であれ適応し、それと関連づけられる。

八.想像対象を区別する心を伴う五感覚的意識

第三にある、想像上の対象を区別することによる意識の仮想的な枠組みとの組み合わせについて、それは6つの部分で区別される。その本質は、心的対象と感覚的対象を、善、悪、善と悪、善でも悪でもないという区別によって特徴付けられる。

九〜十五.心的状態の分類

心的状態の6つのカテゴリーとして、遍在する原動力、特定の物体を区別する原動力、高潔な精神状態、一次感情障害、二次的な感情障害、未分類の原動力がある。

高潔な精神状態は次を含む。すなわち人生への超越的な道徳的目的への信仰、恥、謙虚さ、渇望や食欲に見られる貪欲さの不在、反感と嫌悪に見られる憎しみの不在、利己的な無関心の愚かさに見られる妄想の不在、努力の勤勉さ、より高い目的意識から生じる自信、警戒、非暴力、心の公平性である。

一次的な感情障害には、渇望と食欲に見られる貪欲さ、反感と嫌悪に見られる憎しみ、利己的な無関心の愚かさに見られる妄想、プライド、疑い、欠陥のある信念が含まれる。

十六〜二十.意識の流れ

意識の投影が進展する中、どのようにその異なる段階の顕現を認識するかといえば、原初の意識に依拠すれば五感覚の意識が生じ、顕現し、目の前の状況に適応する。波の出現が水の状態によって異なるように、波が上がるときもあれば、上がらないときもある。

内なる意識は存在するが、外的な条件は存在しないとしたら、なぜ衆生は生と死の流れを経験し続けるのか。これについて、結果を伴う行為からの習慣的な力は、見る者と見られるものとの間の二元性への執着から生じる習慣的な力と結びついている。

二十一〜二十六.三重の実存的性質

意識の仮想的な性質だけがあるのなら、なぜ三重の実存的性質があると言われるのか。その理由は、この三重の実存的性質もまた意識から不可分であるからである。

完全に想像上の憶測にしがみついていると、同一性と目的に真の実存的性質が欠如する。「他者」の発生に応じて、同一性と目的には、それらが単独では存在しないため、真の実存的性質が欠如する。現実の超越論的本質を完全に理解する上で、完全に想像された思索への執着という最初の性質から完全に自由であるがゆえに、いかなる真の実存的本質も存在しない。

万物には究極的な意味があるが、超越的な性質のそのようなものもある。常にそうであるがゆえに、この超越的な本性には究極の実在性があり、そこにあるのは意識の仮想的な本性だけである。

二十七〜三十.意識の仮想的な性質の実践段階

意識の仮想的な性質しかないというこの認識を実践に移すことについての崇高な道の5つの段階がある。

1. 道徳的な備えの段階
2. モチベーションの強化による準備段階
3. 妨げられない浸透の段階
4. 超越的な修行の段階
5. 究極の実現の段階

究極的悟りの第5段階は、人生のより大きな目的の超越的な本質への至高の宇宙の目覚めにとどまることである。障害からの自由が完全に明確で純粋であることで、あらゆる種類の衆生を未来に永遠に精神的に変える能力がある。

偉大な賢者である釈迦牟尼仏によって宣言されたその超越的な目的。意識の仮想的な性質だけが存在することについての三十頌がここに完結す。